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わが国における心臓大血管外科発展の歴史と顕彰

特定非営利活動法人日本心臓血管外科学会
名誉会長 古瀬 彰

はじめに

多くの医学の領域の中で、心臓大血管外科ほど急速な発展を遂げた領域はない。現在では、新生児から超高齢者にいたる幅広い年齢層の心臓大血管疾患に対して日常的にしかも安全に手術が行われている。これは過去に於ける心臓血管外科医を中心とする医療スタッフの献身的な努力の汗の産物であるとともに、当時危険を冒して手術を受けられた患者・家族の涙の結晶である。わが国の心臓血管外科は第二次大戦のためそのスタートは遅れたが、短期間で欧米に追いつき、世界に伍する成績をあげるにいたった。ここではわが国の心臓血管外科の歴史を顧みて、その発展に大きく寄与した業績を紹介する。

1.黎明期の心臓手術

第二次大戦前には世界的にも心臓大血管外科にはまだ搖籃期であり、心膜炎や心臓外傷に対する手術が散発的に行われていたにすぎなかった。わが国では、1928年に千葉大学の瀬尾が収縮性心膜炎の3症例に対して心膜切除術を行っている。

心臓外傷の手術をわが国ではじめて行ったのは岡山市榊原病院の榊原(亨)である。1936年、喧嘩による心臓刺創で心タンポナーデ状態にあった工事人夫に心膜切開を行ってタンポナーデを解除し、心臓からの出血に対してガーゼによる圧迫止血を行ったのである。翌年、大阪大学の小沢らは鉄片による右室損傷を縫合し、日本外科学会総会でこの止血法をめぐって榊原・小沢の大論戦があった。

ちなみに外国では心膜切除術も1885年にWeilによって実施されており、心臓縫合は1896年にRehnによって行われていたのであるから、わが国の心臓外科は欧米にくらべかなり遅れてスタートしたといえる。

2.非直視下心臓手術

欧米で本格的な心臓外科が開始されたのは第二次大戦前後であり、1938年にGrossが動脈管結紮、1944年にBlalockが短絡手術、1948年にはBrockが肺動脈弁切開、Harkenが僧帽弁交連切開などの非直視下心臓手術を行っていた。

すなわち当時の欧米では敗戦後の日本では信じられないような進歩が見られていたのであり、大きく取り残されていたわが国の外科医は欧米に追いつくために一丸となって努力を積み重ねた。

わが国における動脈管開存症に対する結紮手術の第1例は1951年5月5日、榊原(亨)によって行われた。東京大学の木本も同年6月21日に、同じく動脈管結紮術を行った。肺動脈狭窄症に対するBrock手術は本邦では榊原(亨)によって1951年7月10日に施行された。

Blalock手術は1951年11月22日木本によって実施された。患者は6歳男児のファロー四徴症であった。木本は翌年までに10例のBlalock手術を行い、本邦におけるその後の先天性心疾患外科的治療の普及に対して多大の影響を与えた。

閉鎖性僧帽弁交連切開は榊原(亨)によって1952年7月18日に行われた。

3.常温下の直視下心臓手術

1951年Swanは常温において上下大静脈遮断下に心室の弾片摘出を行い、同年Varcoは同じ方法で肺動脈狭窄の手術を施行している。わが国でこのような常温下の直視下心臓手術に挑戦したのは大阪大学の小沢であった。1954年11月、ファロー四徴症に対して漏斗部切除術を実施したのである。この方法は3例に応用されたが、時間的制約のため1955年までに中止された。

1954年Lilleheiは片親の心肺を使った交差循環法を開発して、多くの先天性心疾患に対する直視下手術に成功したが、本邦では広く用いられるに至らなかった。

4.低体温法による直視下心臓手術

常温下の循環遮断時間には3分程度という厳しい制約があり、この間に行うことのできる直視下心臓手術は限られている。1950年にBigelowが発表した全身低体温法はこの遮断時間の延長を可能とするものであり、Lewisらは1953年に本法による心房中隔欠損症の手術に成功し、開心術の扉を開いた。

東京女子医科大学の榊原(仟)らは、1954年7月10日、肺動脈狭窄症に対し表面冷却法によって直視下肺動脈弁切除を行った。さらに1955年1月11日には、本法で心房中隔欠損症に対する手術を行った。

一方東京大学の木本は、浅野らの実験的研究に基づいて選択的脳潅流冷却法を臨床に応用し、1955年1月17日に心房中隔欠損症、5月30日に心室中隔欠損症、11月16日にはファロー四徴症の根治手術に成功した。

このように榊原(仟)らの頭部を含めた全身表面冷却法および木本らの選択的脳潅流冷却法はほとんど同時期に本邦の開心術の曙を告げた重要な方法であったが、もともと同門であった2人が、別な施設で互いに競い合い、このような成果を産んだことは特筆に値しよう。

この低体温法は東北大学の渡辺、岡村らの実験的研究により一段と深められた。エーテル深麻酔下の表面冷却による超低温法を開発し、直腸温15-17℃で1-2時間の遮断が可能であることを1956年10月の日本胸部外科学会で発表した。この結果は1958年ドイツ外科学会でも報告され、1959年のDrewの体外循環併用による超低体温法の開発につながった。わが国の心臓外科の成果が海外に輸出され、世界に影響を与えるようになったのである

この単純超低体温法はその後岩手医科大学に移った岡村、新津らによって臨床応用を重ねられ、東北大学では1961年堀内らによって乳児開心術に応用された。この方法は毛利によってシアトル大学のDillardに伝えられ、米国に広められた。1965年、京都大学の日笠、城谷によって表面冷却法に人工心肺による潅流冷却を加味する方法が乳児開心術に応用されるようになり、好成績を挙げた。この方法はニュージーランドに留学した森(渥視)によってBarratt-Boyesに伝えられ、ここから全世界に発信された。このようにわが国は低体温下開心術の歴史に重要な役割を果たしたのである。

5.人工心肺による直視下心臓手術

人工心肺が実用化されるには外科医の努力だけでは不十分であり、多方面の技術の発展が必要であった。1953年Gibbonがスクリーン型人工肺による心房中隔欠損の閉鎖手術に成功し、さらにLillehei、Kirklinらが成功例を発表するに及び欧米では人工心肺時代に突入した。

わが国でも1952年以来、名古屋大学、慶応大学、東京大学、東京女子医科大学で実験的研究が続けられていたが、なかなか臨床成功例がえられなかった。わが国で初めて人工心肺による開心術成功例がえられたのは1956年になってからである。大阪大学の曲直部は同年4月18日、ファロー四徴症に対する根治手術を実施したのである。人工心肺による手術の成功は、同年4月24日榊原(仟)の僧帽弁閉鎖不全症、6月11日慶応大学井上(雄)の心房中隔欠損症、9月15日木本のファロー四徴症と続き、わが国でも人工心肺時代がスタートした。

人工心は初めシグマモーターが使用されていたが、血球破壊が多く、騒音が大であり、停電などの緊急時の配慮もされていなかった。1961年頃にはローラーポンプが出現し、著しい改善がみられた。1984年頃には遠心ポンプも使用されるようになった。

人工肺としては、DeWall-Lillehei気泡型人工肺には酸素化能や消泡能に限界があり、血球破壊や血液充填量についても問題があった。1961年頃になると回転円板型人工肺に使用されるようになり、著しい性能の改善がみられた。しかしこれは大型の装置で、あいかわらず血液充填量が多く、準備にも時間がかかり、より簡易なものが求められていた。使い捨ての気泡型人工肺の出現はこのような要請にマッチしていた。1966年になると日本製のシート式気泡型人工肺も開発され、低価格で供給されたため、各施設に急速に普及していった。1970年になると使い捨てのハードシェル型気泡人工肺が出現し、熱交換器を内蔵するためより簡便なものとなったばかりでなく、消泡能の持続時間も長くなり、長時間の使用に耐えるようになった。1972年には膜型人工肺が出現したが、初期の積層型やコイル型のものにはいろいろ問題が多く、その使用は限定されていた。しかし東京女子医科大学の須磨の指導によって1981年頃にはホローファイバー式膜型人工肺が実用化し、近年ではもっぱらこの形のものが使用されている。

人工心肺の改良とともに心筋保護法にも著しい進歩が見られ、これが開心術の手術成績向上に大いに役立った。初期の開心術は、軽度低体温下の間欠的大動脈遮断によって行われることが多かった。短時間とはいえ心筋虚血の影響は大きく、心房中隔欠損症のような単純奇形の修復手術成績は良好であったが、ファロー四徴症などのより複雑な手術では術後の低心拍出量症候群のためしばらくの間手術成績が向上せず、生存例を得るため非常な努力が積み重ねられた。

ところが1970年代後半に冷却停止法の出現によって心筋保護に革命的な進歩が見られ、その結果いずれの施設でも手術成績が著明に改善した。体外循環、心筋保護、術前術後管理の進歩によって、すべての分野の心臓手術成績が向上し、その結果手術適応は乳幼児や高齢者に拡大され、従来は不可能とされていた複雑な先天性心疾患の治療も可能になった。

虚血性心疾患については、本邦では1970年2月に日本大学の瀬在が心拍動下に自家動脈片を用いる大動脈-右冠状動脈バイパスに成功し、同年6月東京女子医科大学の林が体外循環下に左内胸動脈を左前下行枝に吻合し、さらに神戸大学の麻田が大伏在静脈を用いた大動脈-右冠状動脈バイパスに成功をおさめた。心筋保護法の進歩がバイパス手術の安全性を高め、冠状動脈手術が広く一般病院で行われるようになった。さらに1990年代後半に人工心肺を使用しない心拍動下バイパス手術が導入され、合併症が少ないため、多くの症例に使用されるようになっている。この方法の実施については、本邦は世界をリードしているといっても過言ではない。

近年では外国からの情報も遅滞なく入ってくるため、日本独自の心臓血管外科というものはもはや存在せず、世界の心臓血管外科の一部として活動しているが、その中でも本邦において世界に先がけて開発され、現在も使用されている手術術式としては、単心室の中隔形成、Taussig-Bing奇形の心室内修復、大動脈弁輪の前方拡大、右胃大網動脈を用いた冠状動脈バイパスなどが挙げられる。

わが国で最初の心臓移植は、1969年8月8日に札幌医科大学の和田によって行われた。この移植に関する疑問とこれに対する当時の医学会の不十分な対応が、脳死移植医療に対する強い国民的不信を呼びおこし、その後長期間心臓移植が行われず、移植医療に関する限りわが国は後進国となってしまった。しかし関係者の継続的な努力によって1997年6月に臓器移植法が国会で可決され、1999年2月28日大阪大学の松田によって心臓移植が再開された。

6.大血管手術

世界最初の腹部大動脈瘤切除は1951年Dubostによって実施され、再建は同種大動脈によって行われた。わが国で最初の腹部大動脈瘤切除が実施されたのは1952年7月25日である。東京大学の木本はこの例にアルコール内保存同種大動脈を移植、さらに1953年2月18日、別の症例にアルコール内保存羊大動脈を移植した。前者は7年後に大動脈十二指腸瘻で死亡、後者は11年後クモ膜下出血で死亡したが、剖検で羊の大動脈に粥状硬化はあるものの患者自身の大動脈と区別がつかないほどになっていた。腹部大動脈に人工血管を最初に用いたのは東北大学の大原でナイロンを使用しているが、1959年和田(達雄)の指導でクリンプ付きのダクロン人工血管がわが国で作られるようになり、これによって腹部大動脈瘤の手術が普及した。

最初の上行大動脈切除、側壁縫合も木本が行っている。手術は1952年11月で、欧米よりも早い手術例であったが、患者は縫合部末梢端の瘤再発破裂のため術後34日に死亡している。上行大動脈切除、側壁縫合の本邦最初の長期生存例は1959年の和田(寿郎)の手術例である。上行大動脈瘤の切除置換術は1967年新谷らにより体外循環下に、同年船木らにより潅流低体温循環停止下に行われ、いずれも成功した。

下行大動脈瘤切除の第1例は1956年7月に木本によって行われ、ナイロン人工血管が移植された。下行大動脈遮断中の脊髄保護について東京大学の宮本(清)らが髄液吸引を1957年に報告したが、これはわが国血管外科の独創的な業績であり、現在も世界的に臨床応用されている。

解離性大動脈瘤に対する本邦における最初の下行大動脈置換例は1962年名古屋大学の神谷(喜作)らによって報告された。低体温麻酔下に左鎖骨下動脈分岐部直下から横隔膜直上に至る解離性大動脈瘤を切除、末梢側の解離腔を閉鎖した後、テトロン代用血管を真腔に吻合した。患者は全治退院し長期生存した。

弓部大動脈瘤切除については、1960年木本は一時的バイパス法による最初の成功例を報告し、少し遅れて同年和田(寿郎)も一時バイパスによる成功例を報告した。大阪大学の宮本(巍)によって人工心肺による弓部大動脈置換術の成功例が報告されたのは1964年になってからであった。

弓部大動脈置換では脳保護法がもっとも重要であるが、本邦においては1957年に東北大学の渡辺らによって実験的に報告された超低体温法はその後大きな発展をみせず、むしろ脳潅流冷却法が繁用されてきた。浅野は心臓手術において選択的脳潅流冷却法を実験的に開発しているが、弓部大動脈手術にもこれを応用し、1970年に分離体外循環と名付けその普及につとめた。その後この選択的脳潅流法は本邦において非常に発展し、弓部大動脈手術に関して世界をリードする手術成績があげられている。また1988年に天理病院の上田らが導入した逆行性脳潅流法は簡便であるため急性大動脈解離などに対する緊急手術に応用しやすく、弓部大動脈手術の一般病院への普及に役立った。

胸腹部大動脈瘤の切除は1966年榊原(仟)らによって行われた。表面冷却による全身低体温法により、DeBakeyの方法に準じて腹腔動脈と上腸間膜動脈の再建がなされ、全治退院している。

近年胸部大動脈の手術成績が著しく良好となった一つの理由として人工血管の進歩があげられる。移植時にヘパリンの全身投与を必要とする部位の人工血管は有孔度が低いものが必要であり、以前のものは出血を防ぐための前操作によって人工血管が硬化し、縫合がむずかしくなるという欠点があったが、このような前操作を必要としない柔らかな平織りダクロン人工血管が使用されるようになってから、著しく縫合が容易になった。

7.日本心臓血管外科学会の国内的・国際的リーダーシップ

1948年に創立された日本胸部外科学会は、当初は呼吸器外科が中心であったが、次第に心臓外科の発表が増加してきた。一方、1972年に国際心臓血管外科学会の受け皿として日本心臓血管外科協議会が発足し、1975年に学会となった。発足以来の会長・理事長ならびに学術総会会長は(表1)にまとめられている。この間、日本心臓血管外科学会は心臓血管外科専門医の認定や心臓外科手術データベースの運営、さらには医療倫理や安全管理に関して関連学会とともに積極的に活動してきた。

日本心臓血管外科学会の国際会員は、同時にアジア心臓血管外科学会の会員となっている。アジア心臓血管外科学会の会員の70%は日本心臓血管外科学会の会員であり、1993年の学会設立以来日本から理事長が出ている。アジア心臓血管外科学会は米国・欧州に次ぐ世界の第三極として国際的胸部外科ネットワークに参加し、国際学会間の交流を積極的に行っている。日本心臓血管外科学会の会員は、アジア心臓血管外科学会の中心的メンバーとして国際貢献しているのである。


日本心臓血管外科会長・理事長・総会会長

年度会長・理事長学術総会会長学術総会開催地
1972木本誠二三枝正裕東 京
1973曲直部壽夫大 阪
浅野献一新 潟
1974西村正也福 岡
1975榊原 仟東 京
1976杉江三郎札 幌
1977砂田輝武岡 山
1978麻田 栄神戸
1979和田壽郎東 京
1980三枝正裕稲田 潔岐 阜
1981古賀道弘久留米
1982堀内藤吾仙 台
1983弥政洋太郎名古屋
1984井上 正東 京
1985岩  喬金 沢
1986浅野献一川島康生大 阪
1987三島好雄東 京
1988中村和夫神 戸
1989田辺達三札 幌
1990寺本 滋岡 山
1991上野 明甲 府
1992古瀬 彰毛利 平仙 台
1993徳永皓一福 岡
1994阿部稔雄名古屋
1995松本明彦横 浜
1996伴 敏彦京 都
1997宮本 巍尼 崎
1998細田泰之東 京
1999中島伸之千 葉
2000今井康晴東 京
2001江里健輔宇 部
2002松田 暉大 阪
2003北村惣一郎安田慶秀札 幌
2004伊藤 翼福 岡
2005数井暉久浜 松
2006高本眞一川副浩平盛 岡
2007黒澤博身東 京
2008青柳成明福 岡
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